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COLUMN 1 |
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ガンダーラとギリシャ美術
100年ほど前にガンダーラ仏教美術を研究し大成させたフランス人の碩学Alfred
Foucher(1865〜1952)はガンダーラ美術を「ギリシャ人を父とし、インド人を母として生まれた混血児」と言いました。すなわち、インドで生まれた仏教が、ギリシャ文化に刺激されてガンダーラ仏教美術が生まれたというわけです(「ギリシャ式仏教美術」)。
以来、この考え方が主流となっていましたが、いろいろな反論がでてきます。それも当然でしょう。ガンダーラの盛期は、紀元後1〜4世紀です。その当時、西方はローマ時代ですから、ローマ美術がガンダーラ美術に強く影響したという主張がありました(特にアメリカの学者Benjamin
Rowland「ローマ式仏教美術」)。
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例えば、図1を見て下さい。ローマの工人がガンダーラに来て作ったのではと思われるほどです。 |

図1
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また図2のような酒宴図でも全く同じような構図のパネルがローマ美術にあります。 |

図2
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その他、隣国であったパルティアからの影響。ギリシャ美術を愛好し、模倣に専念したパルティアのイラン美術からの影響。すべて正しい主張であったと思われますが,ここではフーシェのガンダーラへのギリシャ文化の影響について少し考えてみましょう。 |
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アレキサンダー大王がペルシャ帝国を征服し、今のアフガニスタンの北部にやって来るのが紀元前326年。この地にバクトリアという植民地を作ります(図3、アイハヌム神殿から発掘された大理石のゼウスの足)。ギリシャ兵を残留させ現地の女性と混血させます。アレキサンダーの使った現地人を手なづけて植民地を安定化させる懐柔策だったようです。これがインド・グリークです。その後、インド・グリークはヒンズークッシュ山脈を越えて南下し、ガンダーラの地にやってきます。ペシャワールの北のチャルサダやタキシラに定住したようです。紀元前1世紀のことです。
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図3
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イギリス人John
Marshallの発掘したタキシラからもたくさんギリシャ的なものが出土しています。またチャルサダからも同様なものが多く出土します。図4、図5、図6などはチャルサダから出土したものです。すべてギリシャ的(ヘレニスティック)なものです。このようなものを作る人々が、ガンダーラ美術の生まれる前にガンダーラの中心部に根付いていたということです。
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図
図4
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図5 |

図6
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しかる後に、ローマ美術等の外部からの影響はあったにせよ、最初期にはこのインド・グリークの継承していたギリシャ的文化がガンダーラ美術の創始者となったというのがフーシェの主張です。
今ひとつ、ギリシャ美術のガンダーラへの影響ということについて強調したいことがあります。ローマ美術はギリシャ美術を敬愛し、それを模倣しました。言い換えますと、ローマ美術はギリシャ美術のコピーです。しかし、ガンダーラはギリシャ的美術を借りてはじまったにせよ、独自の仏教世界を表現しました。従って、コピー的要素は少なく、独自の世界をもっています。すなわち独創性に満ちています。近年その点が理解されはじめ、ローマ美術に勝るとも劣らないという評価を世界で受けはじめています。
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